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■船橋上空で体当たりを敢行した屠龍とB−29の経緯
20年1月27日サイパンを後にしたB−29のうち76機(注1)が日本本土に到達し中島武蔵野工場(航空発動機製造工場)を爆撃目標にした。
しかし同工場上空は雲に覆われ爆撃不可能だったため、当初から示し合わされた銀座・有楽町・丸の内に目標が変更され船橋方向に抜ける進路を取った。
その内1機であるマクドネル(McDonnell)機長以下11名の搭乗したB−29 ハーレーズ コメット号(Haley's Comet:ハーレー彗星)(注2)は日本機による数度の攻撃を受けた後(注3)船橋上空到達時に体当たり攻撃を受け墜落にいたった。
ここに展示されているものが体当たりした陸軍双発戦闘機「屠龍」の一部と搭乗員の遺品で、本機体は平成8年、戦後51年目にして搭乗員のご遺体と共に発掘されたものである。
この体当たり攻撃を敢行したのは少年飛行兵10期 小林雄一軍曹(当時20歳、パイロット)と鯉渕夏夫兵長(当時19歳、後席)であり、常陸教導飛行師団に所属し茨城県水戸飛行場より飛来していた。
当時この攻撃は多くの目撃者があり、攻撃時の高度は7、000m程で在ったと推測されている。また船橋と鎌ヶ谷の境で展開していた高射砲部隊の某中尉がこの攻撃の一部始終を目撃し証言している。
その内容は「27日午後3時過ぎ船橋上空で友軍機が単機、B−29 13機編隊に後上方から突進し体当たり攻撃を敢行、火を噴きながら急降下状態で墜落、体当たりされたBー29は佐倉方面に離脱墜落(注4)」を証言しており、その後B−29はエンジン付近から炎の尾を引きながら徐々に高度を下げ佐倉町大蛇付近の上空で左主翼が折れ、酒々井町伊篠一帯に墜落したのが判明している。B-29からは2名が脱出に成功し憲兵本部に連行され終戦後解放された。
体当たりを敢行した屠龍は煙を吐き操縦困難な状況に陥りながらも操縦を続けたことが目撃談と残骸から推定でき、八千代市上空で旋回しながら高度が低下していき墜落直前で民家を避けるためか旋回上昇後、当時沼地で在った八千代市神久保に墜落した。
この屠龍を送り出した機付長(整備員)で在った鈴木氏によると当時の状況は以下の様だった。
小林軍曹は闘志満々の張り切りボーイで葉隠れ・論語を愛読し時には座禅を組むという無骨な面があったが、後輩である整備員に航空糧食を振る舞いながら話しに花を咲かせ、くだけた所を見せるなど、「師と仰ぎ、兄と慕う」という言葉がピッタリの先輩であった。鯉渕兵長は背の高い堂々とした体格でながら、非常に心優しい人で後輩に全く先輩風吹かせず絶えず同期の付き合いをしてくれ、自ら話しの輪に飛び込んでくる人であった。
剛の小林軍曹、柔の鯉渕兵長の2人は実に絶妙なコンビであったそうである。
部隊は少し前まで体当たり戦法を目的としていたが、この時点では体当たり戦法は終了しており27日の出撃は通常戦法だった。機体は当時、最大の口径であった37ミリ砲を機首に搭載した最新鋭の屠龍(注5)で、鈴木氏自身がB−29撃墜を期待し15発の弾を込め送り出した。
出撃の10日ほど前、小林軍曹・鯉渕兵長・鈴木氏が兵舎で車座になり話していたところ、小林軍曹が「鯉渕、俺は必ず体当たりをするぞ、いいな!」と決意を告げ真剣な顔で鯉渕兵長を見詰めると、鯉渕兵長は姿勢を正し「はい!」と一言。その時、鈴木氏が鯉渕兵長の表情を伺うとサーと蒼白になったのが感じ取れその後も表情が堅いままだった。その後無言の時が過ぎ鈴木氏は居たたまれず逃げるように自室に戻ったそうである。
翌日はお2人に会うと何時もと変わらない晴れ晴れとした態度であり、あの後気持ちを確かめ合い葉隠れの「武士道とは死ぬ事と見つけたり」の境地に達せられたと感じられ輝いて見えたそうである。
小林軍曹が体当たり直前の1月12日の日誌に「皆体当たりを成す。心はやれども仕方なし。武運なき我焦るなと制すれど、今の心境を如何にせん。俺も必ず後から行く、待って居てくれ戦友」と言う一節がのこされている。
小林軍曹は前回までの作戦で戦友が多く戦死しているのを気にしており、自身も戦友に続こうという決意の出撃で在ったと思われるが、鯉渕兵長は何かしらの事情で複雑な心境であったのかもしれないことが伺え当時の兵士それぞれの心情が偲ばれる。
今回私が船橋郷土資料館に展示協力にあたり再度屠龍の残骸をかけら一つ一つまで調べた所、後席付近の残骸より飛行服の一部・酸素マスク・ハーモニカを発見することができた。
鈴木氏に確認をお願いしたところ「ハーモニカは鯉渕兵曹の物に間違いないと思う、宿舎でよく吹いていたから」との回答を頂けた。
終戦60年の節目にあたり一度は細部まで調査された残骸から遺品を発見し、ご遺族様の元に届ける事ができ、お盆にて鯉渕准尉ご仏前において弔っていただけ、なおかつご遺族様・鈴木氏の意向でここに展示できることは、小林少尉・鯉渕准尉(注6)が何かしらのメッセージを現在に伝えようとしているのではないかと考えてしまう次第である。
最後に、展示あたり拙い私に快くご協力いただけた方々にお礼を申し上げます、特に鈴木氏と鯉渕准尉のご遺族様にはご協力だけでなく、戦後生まれの私にとってとても貴重な勉強させて頂ける事になり言葉にならない程感謝しております。
平成17年8月16日 中村 泰三
当時の回想・墜落経緯は鈴木氏からの聞き取り・発掘後の小飛会会報投稿文章より引用させて頂きました。
注1 20年1月27日は76機中9機が撃墜されている。
注2 テールナンバーA(スクエア)22・機体番号42−2461673BW497SQ
武装 12.7mm機銃×10 ・ 20mm機関砲×1 ・ 爆弾最大9,100kg
注3 その内一機は調布飛行場より飛び立った第224飛燕戦闘機隊長小林輝彦少佐だともいわ
れている。
注4 展示写真の印旛沼上空で煙を吐きながら墜落しつつあるB−29がハーレーズ コメット号と
推測されている。
注5 川崎航空機工業 二式複座戦闘機「屠龍」丙[キ45改丙]機体番号4065
武装37mm砲×1 ・ 20mm斜銃×2 ・ 7.7mm機銃×1
注6 戦死後功績を全軍に布告され2階級特進
■28.5.7
鯉渕准尉ご遺品ハーモニカと酸素マスクを靖国神社に奉納する事が叶いました。
写真は靖国神社にて奉納手続きの時、私がご遺族様から託され所有時の最後の写真(左のパネルは私が保存)
私の意向としては墜落地点近傍の郷土資料館等に寄贈し展示を模索してきましたが叶わず、最終的に靖国神社とさせて頂きました。
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■郷土資料館展示
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■印旛沼上空にて墜落しつつあるB−29
■屠龍4面図
■燃料タンクとそれを覆う防弾ゴム
燃料抽入口の一部
■在りし日の屠龍(該当機ではなし)
■エンジン後部パネル
■エンジン部品
■刻印等
■主翼主桁