零戦細部・小物・偏狭マニアの戯言^^;


三菱・中島、上部計器板変換過程からうかがえる事・・・
 水平儀・羅針儀の上部と照準器取付基部(防氷ポンプ取付部も)が切り離され、防振ゴムを介して連結された以降の変換過程です。

これは三菱が二二型生産途中にこの点を変更しています、そこで中島も同時期に生産していた二一型に倣ったと思われます。
何かしらの重大な問題が在り大幅な改修を余儀なくされたのでしょう?
(推測としてはエンジン変更により照準器取付位置が上部に移動した為に、射撃時の振動が照準器に大きく影響したのかもしれません?これは変更前二二型の照準器取付基部の形状・変更からも推測できる事です。また水平儀・旋回計共ジャイロを内蔵している為、軸の折損等の問題が出たのではとの推測在り。参考・零戦談話室等)

中島はこれ以前の二一型の一部金具(水平儀・旋回計防振ゴム取付基部の金具)と同形状のものを採用しています、三菱ではその金具を幅広に変更し前後板上部の補強も追加させて強度をアップさせています。
推測でしかありませんが、中島は既に大量に生産されていた金具を無駄にしない為に旧来の金具を流用したのかもしれません?(この傾向は下部計器板でも確認しています)
その後中島は五二型より三菱と同じ形状を倣う訳ですが、中島独自でリベットの本数を増やしたり径を変更しています。
しかし中島が六二型を生産するときにはこの変更傾向は無くなり、三菱五二丙と同じリベット本数と径を倣っています。
これは三菱五二型では上下の金具はほぼ同形状にも関わらず共通部品でないため、中島では生産性向上のためリベット本数と間隔を同じとし共通化を図り、六二型では上下共金具が形状変更(防振ゴムネジ位置変更も在り)され共通とする事が出来なくなった為に三菱に倣ったと思われます。
(三菱は旧来から2.5ミリと3ミリ混用、中島は二一型五二型でも3ミリに統一、しかし中島が六二型でリベット径3ミリ共通をしなかったのは三菱から指導が入ったのか???計器板周りだけでも中島は三菱より重い傾向がある為か?^^;)



三菱・中島第二隔壁形状
 零戦は各型変更時にそれぞれ対処された各部品変更がなされています、長く使用されただけあり操縦席正面の配置だけをとっても各時期の判別が出来ます。
しかし既出資料でこの点をまとめた資料は私が知る限り存在せず、これだけ有名な零戦で在ってもまだまだ知らべなければいけない点が在ると私の趣向上思います。
また三菱・中島両社で生産された機体で在り、面白い事に計器板一つとっても両社の社風?を表す良い資料だと考えます。
理由が予測できるもの、不明なもの多々在りますが、そもそも計器板構成で最も重要な第二隔壁ラインが両社で違う事は「どんな理由だろう?」と探求心に駆られます。
もっとも私は計器板形状極一部を詳しく知るだけの素人なので、突き止めることは不可能と思われ第二隔壁形状違いに気づいてから早10年過ぎてしまいました^^;
理由をお分かりになる方おられましたらご教授頂ければ幸いです。
私の根拠のない予測では、中島は余裕を持たせるために形状変更に踏み切ったと考えています。(三菱機では主計器板の取付に防振ゴムを介しているにも関わらず干渉する問題が数年続いた痕跡が確認できる等、現場に出てから問題の発生する余裕のない設計?が残された残骸等からでもうかがい知れる)
三菱・中島第二隔壁形状
上から中島初期、中島中後期、三菱後期の形状、各種照準器マウントとなります。

中島21末期
前後傾斜計が省略されたタイプ
今一確定できていません今後の調査結果次第です。
注油ポンプと酸素調節器2型の間には前後傾斜計マウント幅分の隙間が開いていた機種も在った様です?
三菱最初期型第二隔壁形状
製作計画している最初期型の上部計器板形状ですが、型を新たに新規作成して再現したいと考えています。作成はまだまだ先となりそうです。
しかし真珠湾作戦時等このタイプのバックグラウンドまでは深く考えていなかった事を含めて、私も所属している「TeamZero2」のメンバーで話し合って、不確定では在りますが結論として出してみました。

1.真珠湾作戦時には中島機は間に合わなかった。
2.   〃    三菱機の第二隔壁形状は、捕獲機の機番号での結果、「くびれ型の最初期型(操縦桿前の覗き窓無し)」
と言う結果となりました。(隔壁形状変換時期の微妙な時期で特定が難しいのです^^;)
このフレームは捕獲零第一号機のチャイナ零3372号 V−172とオーストラリア不時着5349号 BII-124 で確認しています。


と言う事で添付写真で示します。

下が第二隔壁フレーム形状再現
上がそのフレームに水平儀・旋回計をマウントゴムを介して通常装着再現です。




それ以降のくびれ無しの実物確認例で言えば4539 D-108と5784 V-173があります。(しかし操縦桿前の覗き窓無しだと思われます

三菱32型
零戦32型 V−190号 報国−874 定平号
マニュアル基本通りのボンベ配置の写真は既出資料での確認は難しいと思います。
これを見ると装備を外す前のこの写真が見たいと思ってしまいます、アメリカ公文書館で誰でも見れるとは思いますが探すのがとても大変なのでしょうね・・・・・・・



前後傾斜計取付金具
11・21・32・22型まで続いた前後傾斜計下部計器板に装備される前後傾斜計と取付金具
この金具は32型に装備されていた物。
この様な部品でも各型変換時の痕跡が残されている場合が在り、絶対的に資料の少ない操縦席内部の変換経緯を推測・特定するに重要な情報となる。

酸素調節器1型
11・21・32型半ばまでの酸素調節器2型に変更されるまでの配置

下部計器板中島21型最末期予想
最末期の中島21型ですがこれまた資料が極端に少なくて特定不可能です、公開可能な資料が無いため、代用です。
赤×の金具は無しのタイプか黒線で示した電動燃料ポンプスイッチ箱が付いた物を予測しています(しかし21でポンプ付きも?ですが)
しかし今の所このタイプか注油ポンプ取付金具と酸素調節器・150圧力計取付金具の間が数センチ(前後傾斜計金具分ではなくそれより少ない幅)の物と予測しています。
他の型はかなりの精度で絞れてはいるのですが末期は未だ推測の域を出ません、いずれ計器板含めた各型配置の全数を製作を目標としていますが、考証等々にまだまだ時間がかかり前途多難な趣味でもあります^^;

主翼燃料タンク固定バンド構造
タンク固定バンドは金属製で内側にフエルトをリベット固定されています。
最下段写真が主翼を下面からタンクパネルを外して見たと仮定しての固定位置一例です、末期の物以外は銀塗装タンクに淡青色(青竹色)バンドで映える色合いだったと思われます。







フラップ操作装置、切換握杷
握杷作動は3段階で、左側に寄せロックを解除して前方押すと下げ方向に作動します、中間に戻し後方に引くと上げ方向に作動です。
写真の物はロックが解除された状態で下げ方向に少し動かした所で固着しています。



21型カウル気化器空気取入装置


三菱4316号


排気管
フロント2番気筒のものです。
代用材になってからの物と思われだいぶ省略されています。

主輪 改良過程
 零戦のタイヤ等大戦初期に強度問題が在った事は書籍等でも確認できると思います。
残存する現物で対処前・後の比較をしてみました。(初・中・後期の区別は私が勝手に付けた物です)

 初期のホイールは残念ながら持っていませんが、写真の中期ホイルと少しだけ違うことを確認しています。
違いはホイルカバー留ねじ穴部(丸形の3ヵ所)が無く、ねじ穴が付いたクリップタイプの部品が付きます。
細かい所ではドラムブレーキのドラム部の取り付け部がリベットに合わせて波型になっていて、写真の中期タイプより数十グラム軽いはずです。(岡本製との比較、渡邊製は中期でも初期と重量はほぼ変わらず)

 重量は初期が(以下重量全て約)12.6kg、中期が14.6kg、後期が20.2kgとなります。(ホイル・チューブ・タイヤのみの重量)
タイヤとしては初期から比べると中期で2kg増、後期で4.4kg増と、強度が増している事がうかがえます。(比較した物は17年8月製・18年5月製・後期は日付無し)

以上の事で推測できる事は
1、タイヤ強度不足による補強での重量増
2、ビートストッパーが初期中期は片側2個に対して後期は両面24個(着陸時タイヤとホイルのズレによりチューブが裂け、一気に空気が抜ける重大なパンクとなるのを防ぐ為)
3、ホイル分割方式により整備製の向上
となります。上記タイヤは全てブリジストン製になりますので、資料が残っていない物か?気になる所です。

 初期の零戦は主輪だけでも13.2kgも軽かった事が判り、主銘板の総重量の変化の一端が判明したことにも意義が在りました。(その他、外板増圧・主桁増圧等々在る訳ですが・・・)

主輪 改良過程 2
初期型のタイヤは形状が違います、当時の写真を見ても確認できる例が何点か在ります。
左初期・右後期(中期もほぼ同じ)

主輪 改良過程 3
ホイルだけでも初期は軽々と持てますが後期は両手でないと無理です。
左後期・右初期(ホイルは中期)
ビートストッパーの位置関係が良く判ると思います。

主銘板、総重量
上17年4月製の機体全備重量21型
下18年12月52型

照準器マウント基部
各型式の仕様によって様々な変化が見られる部分です。
これは中島の中期を再現したものの製作過程です。


右のものは三菱の一例です。

自動消火装置
自動消火装置の発信器(センサー)と、消化の為炭酸ガスを送る配管です。
零戦と言えば防御を犠牲にしてまで軽くしたと良く言われます。
しかし防弾タンクこそは計画のみで終わってしまいましたが、中期以降からはこの自動消火装置が取り付けられました。
1回のみですが、消火能力は高かったと資料にも在るようです。

追記:当時の零戦搭乗員の証言で「主翼を撃たれ発火したが自動消火装置により無事帰還した機体を良く覚えている
その部分が白くなっており発火後短時間で消火されたようだ」と話されていました。
白くなっていたとの証言は消火後比較的早くで降りてきた機体だからだと思われ、炭酸ガスが噴出されると急冷の為に
白くなるからだと推測しています。
証言者は土方敏夫大尉で「海軍予備学生零戦空戦記-ある十三期予備学生の太平洋戦争」を執筆された方です。

主翼下面外板と主桁
茶色がかっていますが、元の所有者が腐蝕防止処置の為、短期で黄ばんでしまうクリヤを塗った為です。
日の丸赤は素晴らしく良い程度で残っています。
主桁と合わせると、僅かな段差も許さない設計者の心意気が明瞭に判ります。

零戦21型 左外翼部上面後主桁


零戦21型 左外翼部上面後主桁 弾痕
12.7ミリに合致する弾痕が確認でき、上方やや前より撃たれています。
この機体はソロモン諸島に放置された機体ですので、この弾痕が致命傷となって放棄されたのかもしれません。

エナーシャー内部


第一風防右 強化ガラス




零戦主輪
最後期の物だと思われます。
ゴムはまだ硬化していなくてその点は良い程度です。
3枚目>腐食処置の為分解してみました、農家で使用されていた物がお役御免になって空気が抜けてしまい内部に水分が入る状態が長かったらしく、内部腐食で分解に非常に手間取りました。
チューブはオリジナルと思われ信じられない良い状態です(マークがありました)、2箇所パンク修理したらOKでした^^





三菱3353号外板
水平尾翼下面、ステンシル名板付近の外板です。



二式一号水上戦闘機名板
前部胴体の名板だと思います。イギリス帝国博物館の物と番号等一致しますのでそう判断しました。
私の予想では名板文字の1部が塗りつぶされていますから2式水戦名板の余った物を零戦に流用した物だと思います。
イギリスの写真も比較で載せます(名称が変更前の名板を流用しているのが分かると思います)





発動機架取付金具
最初3枚は上部で機体を釣り上げる為の前方釣上部10ミリボルト穴が見えます。(零戦秘録P217参照)
最後の3枚は下部の物です。











主翼下面 前桁・後桁
中島21型の物です。
軽量化を目指す為なるべく表面に近くする苦心が良く判ります。
右側が中央結合部の切れ目で左主翼の物です。





なまこ板?
左主翼上面後桁付近にあるコックピット乗降時の為の滑り止め板です。
何と!流石零戦!滑り止めの突起一つ一つが流線型をしてるではないですか!
残念な事によっぽどしっかり打ち込まないと表面からは流線型が現れ辛く楕円形の突起にしか見えません(^^;)
効果のほどは?ですが、こんな細かい所まで気を配るのは零戦だからではないからでしょうか・・・・私はこの気質がとても大好きです。



主翼結合部
主翼上面前桁13・12番リブの物です。腐食していますが放置されていた物にしては良く原型をとどめてます。
内側にL字の結合金具2枚で連結されボルトで結合されています。
ボルトの緩み止めの為のポンチ跡・主翼外板に接している四隅の4本のボルトは外板交換を可能にする為ナットを2つ使用した緩み止めをされており赤ペイントで塗られている等確認出来ると思います。

青竹色は緑色でなく青色だったと私は予想するので、その点も一例で参考になればと思います。(密着性が高い所で青色が現れる為)

















C/Gステンシル
(所有者のSDCR我1さんの許可をえて撮影・掲載させていただいてます。撮影日時平成15年7月21日)
今まではKOGA Reisen [D1-108] の写真が有名ですね。
これは三菱52型の物ですが胴体左側面1番隔壁から第2隔壁の間に書かれている物で、前からマーク(地図の灯台マークみたいな物) 自×重   マーク 前桁(マークの下に縦書き)となっています。
「自重」は自重のみのときの重心位置、「重」は自重に搭載量を加えた総重量での重心位置を表しているそうです。
総)(重の総が弾痕パッチで隠れてしまっています、この機体は他にも様々な形の弾痕パッチが多々あり歴戦の機体である事が判りました。

総)(重 破片は米軍兵士の戦利品で回収された物でニューギニア島ラエ基地と思われます。









7,7ミリ取付部分
手前が機首側で7,7ミリ前方取付受け金具と装弾ガイドが確認できます。
外板上辺の3つの穴はパネル取付用の穴です。
7、7ミリ受け金具下にあるクリアケースは保持台にしているだけです。(クリアケース中身は落下傘装着帯の離脱器で左陸軍、右海軍)


脚庫内部材(右・左脚庫内)
左側の曲げ部分切り欠きは腐食の為でなく發條(バネ)が通る為の切り欠きです。
52型の部材と思われますが後期の機体は流石の零戦でも乱雑な加工がされていました。
この部材は三菱ですが中島でも同じ乱雑な加工が見られます、パイプが通る穴なども金切りばさみ?で適当に開けたと思われる穴が各所に見られます。





後部胴体縦通材
これと同じ形状の縦通材は2種類あり前部胴体5〜7隔壁間と後部胴体上面4本と下面2本は15×15×6×0,8でそれ以外は15×15×5×0,6です。
しかし零戦は細かい!これも軽量化の為でしょうね・・・凄い!



木材使用例
主翼フィレット上ラインを止める為に木ネジが使用されていて、木ネジを受ける為に縦通材内部に木材が入っています。

52型プロペラ
52型で使用された住友ハミルトン型恒速式3Dプロペラ根元部分でヤップ島からの回収品です。
真鍮部分はピッチ微調整用の物で47・46・45の刻印が在りそこを基準に調整していたようです。



方向舵 頂点部分残骸
右下側が頂点で下に残っている外板に特徴在る軽め穴とRが見られます。



結合板と補強材
結合板は零戦秘録P65
補強材は(大図解)零式艦上戦闘機(グリーンアロー出版)P55・零式艦上戦闘機機図面集P10に載っています。
大図解と図面集の略図には135号機下川大尉空中分解事故前の図の為か結合板が省略され補強材と小骨(リブ)との結合が見られませんが、現物は零戦秘録P65に載っているように全部「結合板」にて結合がされています。(燃料タンク部分のリブと一部例外は除く)

写真4枚目の補強材には番号と意味不明な書き込みがされていた物です。








填材「エレクトロン」
零戦図面集P12
他の部材が主桁との段差面に接してリベット止めする際、段差をを緩やかにする為に入れられています。
材質はエレクトロンとなっていますが後期は非金属の代用材を使用していた所も在ります。
写真は後桁3番リブ下側部分で左側の壁板が腐食の為在りません。
写真左が機首方向になります。

写真2枚目3枚目は各種填材ですが、下の2つは左が金属・右が代用材です。
右上・中の薄い物でも三角形の断面をしており零戦の細かな細工が伺えます。