報國-515(廣嶋縣産報呉支部號)



 後部胴体側面に、報國-515(廣嶋縣呉産報支部號)と書かれ、零式一号艦上戦闘機二型、三菱2666号、昭和17年3月31日製造の零戦21型である。
(以下「報国515号」という)
2017年3月時点では、ソロモン諸島ガダルカナル島のジャングルに、右主翼と後部胴体が断裂した状態で放置され、同年8月頃までに島内にて博物館運営をされている実業家が回収し館にて保管していた。
その後9月にオーストラリアに輸出され、10月に筆者に紹介があり保護に動くことを決断し12月に日本に里帰りが叶った。
残骸状態の一部ではあるが最良のオリジナル塗装と標記が残る、確認している限り世界においても現存1機の貴重な航空産業遺産である。




・報國-515(廣嶋縣呉産報支部號)の背景

「報国号」とは各企業・民間団体・また一個人でも提供した資金により、海軍兵器を献納できる制度であり、陸軍では「愛国号」という名称となる。
番号は昭和7年の1号機より連番となってはいるが、この道の第一人者の横川氏のサイトによると現状では全貌を知りえる事が出来ない膨大で大変な探求である事が判る。
(横川氏のHP「陸軍愛国号献納機調査報告」)
「廣嶋縣産報呉支部號」の産報とは産業報国会、現在での労働組合に近いが、国策によってさまざまな組織が統合された組織となっており、呉支部號は呉市内の産業報国会会員が提供した資金により零戦が献納されたものとなる。


・新聞記事から知る命名式

 昭和17年3月21日に広島県呉市で命名式が催された。命名式を報じた呉新聞の3月22日の記事と、戦後に呉新聞を統合した中国新聞の21日の記事にて確認できたことである。
会場は飛行場ではなく呉市呉会館講堂ではあるが、機体完成はそれより後の3月31日である。
これは矛盾した事でもなく、大東亜戦争も近い時期に献納機である報国号は「昭和16年12月1日以降、兵器の配列や飛行作業を披露しない」という通牒がされているからである。
この項目と新聞記事の探し出しは横川氏からの情報である為、この場をお借りしてお礼を申し上げたい、その他、この時期に零戦の名称を匂わす「艦上戦闘機(零)」が明記された海軍公報が存在し、報国515号の絵葉書は零戦を使用した最初期の献納機である可能性が高い事を推測しており、今後の発表に注目したい方である。




・完成、運用


 命名式の10日後に報国515号は完成、その後の運用経緯は不明。
後部胴体に黄帯1本



報国515号は製造日から6カ月ほどで墜落したと推測される、半年では現在の感覚では新品の状態と捉えがちだが、戦局ゆえの過酷な運用により胴体損傷部をパッチにて継ぎはぎした部分が各所に確認でき、時にラエ飛行場にて破損機から流用された部品が応急修理にて、正規でないネジにて組み込まれる等、かなり使い込まれた零戦であった。





・墜落


 背面となり、45度程の急角度で左主翼端からジャングルに突入した、左主翼が写る写真状況により確認している。
これにより現在の右主翼の残存と、後部胴体が胴体結合部より左に折れた理由が概ね推測できている。


・発見

 2008年、海外の日本機研究サイトにて豪州人が発見と掲載され、塗装と文字の信じられないほどの程度の良さで、大戦機愛好家の間には一躍有名な機体となった。
この時の関係者写真も伝手を使い確認しているが、先に記述した墜落状況の確定と脚カバーに「8」の数字以上の情報は確認できず。
 実際の発見は1986年まで遡る事が落書きで判明し、2008年の写真で既に人員的な破壊が数多く確認できる疑問点が解消している。
恐らく現地民によって、興味本位と金属利用等の為に破壊が始まっていたと伺えた。
その後落書きは87・88と続くが途絶えたと思われる、近年でも木材伐採の為に再発見されたという記述があり、草木の成長が早いジャングル故の途絶と推測される。
また86年以前は深い草木に覆われ、43年間完全に手付かずであったからこそ現在の保存状態となった。




・機体入手により判明した事項


 2008年以降報じられていた「翔鶴の搭載機だった」「3点姿勢で不時着していた」「搭乗員が何名まで絞られた」という情報は、2008年の発見時とされる写真とサイトを精査した筆者側のチームメンバーによって検証され、私が調べる実機状況と比較すると違っていたことが判明した。 
翔鶴所属根拠の白帯は、黄色帯(青)が剥がれた部分に残った灰色を白と誤認したと思われ、また「EI-108」という呼称番号は既に垂直尾翼が失われていて、脚カバーに残る「8」から補完したと考えられた。
黄色と青色の帯は確定だが、呼称番号の根拠が無い事から所属部隊も不明のままである。


墜落時直前の機体の状況は現物から得られる情報から大筋で見えてきている、12.7㎜機銃による弾痕(射出口)が一か所だけあり(他の穴は全て現地民の悪戯かと)、右主脚は脚出し位置だが、正常なロックでなく油圧筒のシリンダロッドが変形しどちらにも動かない状態である。
左主脚は写真により脚出し状態での墜落が、主翼前縁外板の潰れ方と脚位置指示装置の脚指示棒が突出している事により確認されている。




 拘束鉤(着艦フック)はワイヤが切れれば下がってしまう、後部胴体の第8・9隔壁間に着いている鉤捉鈎用の誘導滑車の位置にて下げ位置であった事を判定している。




以上の理由により、味方の陸上施設に対し、「鉤捉鈎」と「降着装置」を出し、海軍機密法令に沿った味方識別動作をしているところで墜落と推測した。

このように当時の状況を浮かび上がらせてくれるのも、この機体が当時の状態をかなりよく残しているからであり、それはいろいろな憶測を退けさせてくれるが、そのような状況にあった機が記録の上で発見できず、搭乗員が墜落前に脱出したのかどうかも、今のところ不明である。

 今後、今回は入手できなかったこの機体のもう一枚の主翼、エンジン、操縦席付近、垂直尾翼を調べることができるなら、さらに情報の精度は飛躍的に向上し、搭乗員の氏名を突き止めるところまでたどり着けるかもしれないのだが、実のところ、最終的に機体を入手できたとはいえ、この機体がガダルカナルのどの場所に墜落していたか正確な情報に接することができていない。これもわかるなら、この機体の素性や搭乗員氏名を突き止めるためにかなり大きな意味を持つはずである。

また、報国515号と同じガダルカナル島で回収された、三菱5539号、左右の主脚機構部も里帰りしており、左脚は前方からの強い衝撃を受け、脚機構部にめり込んだ痕跡が残り、構部下面部にはパッチ修理痕もある。また右脚柱には高角砲と推測される弾痕がある
推測としては、脚入れで、ほぼ後方(僅かに下より)から対空砲火の砲弾が爆発し、2個の断片が右主脚と機構部に被弾痕を作った可能性がある事で、事実としては右脚と共に、左の脚出しロックも外れ両脚共に少し出ていることである。
※以下2019.3.27以前の推測、報国515調査チームにより中村の推測が間違いである事が判明し上記の修正に至る。
また、報国515号と同じガダルカナル島で回収された、三菱5539号1機分の主脚機構部も注目したい、主脚を格納完了する直前で前方からの強い衝撃を受け、脚機構部にめり込んだ痕跡が残るものである。
また、主翼下面部にパッチ修理痕もあり、特に注目すべき点で、右脚柱に脚を出した状態で被弾した12.7㎜か高角砲による弾痕がある事であり、全くの憶測でしかないが報国515号と行動を共にしていた可能性が残る。




・里帰り経緯

 発端は平成29年10月7日、フェイスブックの非公開グループにて報国515の販売の投稿があったことです。
  

 私はその画像を見て
「残骸ではあるが奇跡的ともいえるオリジナル状態の機体ゆえに、是非博物館等が回収し、これ以上の劣化を防いでほしい!しかし回収が可能ならば投機目的に転売され、間違いなく、復元目的の為に分解されてしまいオリジナルは失われる・・・」とオリジナル状態で残す方針の公的機関が動いて頂けることを願っていました。
実は2日前に筆者のダイレクトメッセージに販売斡旋があり確認していたが、よくある怪しい話として聞き流していました。
しかしそれ以前に斡旋された友人から連絡があり購入を勧められ、私の情報網にて裏取りをし、現実的な話だと確信できたのですが、非常に悩みました。
「あれほどのオリジナル度が高い機体が、金額的にも高級車程度で私の所に!」
「私の活動方針での保存・修復・公開を行う為にも最良の機体だ」
「今入手せねば更に部品としてばらされてしまう可能性も!」
「修復後は各博物館の企画展示に貸し出したい」
「しかし入手すれば離婚されるかも?」
「資料館を開設したい!」
等々散々悩み抜きました。          

以上の挙句に入手を決断した訳ですが、資金は全くありません、毎月のお小遣いを当てにしてのローンに奔走し、最終的に2社に絞って算段をしていました。
そのとき私の活動を行う上でのチームメンバーでもある、複数の友人にもこの話をしていましたが、長年の大戦機研究仲間でもあり映画監督でもある片渕監督が助け舟を出して下さったのです。
片渕さんも報国515号をみて「戦争当時から70年以上を経て、当時の状態が世界でも類を見ない最良のコンディションで残った機体」と認識しており、保護の為に私と共同保管する事を決断して下さりました。
そして片渕さんが購入し、海外から輸入・保存処置・公開を私が担当する事となりました。
また英語面で全く不勉強である私のサポートに英語が堪能な井上さん、過去に輸入実績のある清水さんが協力下さり、その他細かい面でも複数のチームメンバーが協力して下さりました。
 
 最初の段階で輸出元であるオーストラリア側との契約段階から苦労の連続でしたが、殆どがチームメンバーの尽力により11月7日の出航を迎える事が実現し、頭が下がりっぱなしでした。
しかし最大の難関は日本に11月19日に到着してからでした、私の日本製としての書類の不備があり通関が認められなかったのです。
時に横浜税関に出向き、三菱製零戦である事を決定的とも思える資料で粘り強く説明した訳ですが、税関職員との確認の上示されたのは「全ての部品を、素人でも誰にでも日本製として判別できる証明資料を提出せよ」でした。
その証明は本来私の得意分野である訳ですが、「誰にでも判別できる」と言う点で、専門的な比較資料の提出は全て却下され途方に暮れた訳です。

  


だが、先のチームメンバーの応援と、通関代理業者の担当者が私に呼応した熱い思いもあり、何とか資料提出が実現しお沙汰を待つこととなりました。
通関許可が果たして出るのか?また許可が出た場合の輸送の為のレンタカーと人足の調整を毎日することとなり、結局横浜港に20日間も留め置かれる事となり、心身ともに疲労困憊した程です。
いよいよ証明は諦め苦渋の通関か!?と、物的精神的に追い詰められましたが、なんと!通関許可の連絡が12月7日、通関実施と輸送が8日となり、零戦にとっても歴史的な日に、晴れて日本製としての通関が実現したことに非常に感慨深い忘れられない日となりました。
 

・今後の方針

 報国515号の里帰り実現は、私を支えてくれるチームがなければ、決して私一人で成し得なかった事です。
本当に良き友人仲間を持てた故の実現ですので感謝と共に嬉しい限りです。
これに報いる為にも今後の保存・調査・公開と、私設ではあるが「零戦・報國515資料館」として見学者の受け入れに力を注いでいく所存です。






 Home